Shaker History 4 (生活様式)
第一回目で、ちらっと、シェーカーは男女別であり、かつ男女平等であったと書きました。これは非常にシェーカーにとっては大切なことで、生活様式もこれに基づいていたといっても過言ではありません。そのため、まず、このシェーカーのプリンシプルともよべるものを説明しましょう。
シェーカーは、マザー・アンが教祖ということは、これも第一回目で説明しました。マザー・アンは4人の幼少の自分の子供を失い、それから宗教に専念することになるわけです。どのような気持ちで宗教に没頭するかは個人差があるので、決定的な「これだ」という理由は各人次第です。
マザー・アンの場合は、人間の営みが非常に罪である、と思ったようです。それでは、人間存続のために必要な子供はどうするのだと反論する方もいるでしょう。マザー・アンは、そのことについてはあまり深く考えていなかったようです。ですから、シェーカーは、勿論子供を自分たちで産出できないので、孤児を引き取って後継者に育てました。当時は現在のように、養子縁組の面倒な手続きも法律もありませんでした。ですから、貧しい家の子供や、両親がなくなった子供の引き取り先として、シェーカーは最適だったわけです。でも自動的にシェーカーになってしまうのは、引き取られた子供には迷惑じゃないかと眉をひそめる方はご安心ください。シェーカーは、子供たちが自分で意思を表明できる年齢になると、「さぁ、どうしますか。外の世界に行きますか。それともこの世界にとどまりますか。」と打診したそうです。ですから、子供たちに独身生活を一生強制したわけではないのです。もし、外の世界にいくと表明した場合は、なにがしかを持たせ外の世界へと送りだしたそうです。
大人が入信することは、勿論大歓迎でした。そのときは、すべての持てる土地財産をシェーカー教団に寄付をしなくてはいけません。シェーカーにとっては、人は神の前にすべて平等であり、欲を捨てなくてはいけないのです。コミュニティとは全く無関係の遠い場所にシェーカー教団の所有する牧場が時折見受けられるのはこういう理由からです。ちなみに、NEJ Connectionがある場所は、ニューハンプシャー州の田舎村のシェーカー牧場道にあります。ここは、昔、この地元の人が隣州のマサチューセッツ州シャーリー・コミュニティに入信したときに、自分の牧場を寄付しました。そして、そこにシャーリー・コミュニティは自分たちの牛を飼いました。そして、土地の人たちは、「あれが、名にしおうシェーカーの牧場だ。」といって、そこに通じる道を、シェーカー・ファーム・ロードと名づけました。
シェーカー・コミュニティを訪れた人たちは、すべての居住地、教会(ミーティングハウス)の建物にドアが2つあることにはじめはびっくりするでしょう。しかし、ガイドさんから説明を受けると頷ける筈です。コミュニティ内は、徹底した男女別の世界だったのです。女は右のドアから、男は左のドアから。でも、女が右(右は英語で Right。Rightには、正しい、という意味もあります。)というのが、どこか女性優位を感じさせませんか。
実際に女性優位だったかはわかりませんが、シェーカーの組織は、すべて男女平等に割り当てられていました。当時としては画期的なことに思えますが、マザー・アンが教祖であったことを考えると、女性を第二の地位に置くなど論外だったともいえます。
建物の入り口が男女別々だと先に説明しました。さて、内部はとなると、これもやはり同じ階に居住していても別々となっていました。時折、夜に聖書を読んだり歌を歌う機会がありましたが、その際は、女性信徒が自分たちの椅子を集団で男性信徒の部屋に持ってきて、男女別に向かい合って座りました。下の写真は、それを表現しています。

実際の生活でも同様でした。男女共同に仕事をすることはありませんでした。仕事はすべての信徒に割り当てられます。おもしろいことに、1つの仕事だけに割り当てられるのではなく、ローテーションで仕事にあたります。たとえば、男性ならば、靴下編み(当時は機織や靴下編みも男性がしました。)箒作り、椅子作り、箱作りを一箇所にとどまるのではなく、順々と期日を決めてしていました。これならばいろいろな仕事を習得できますし、飽きずにすむわけです。
子供たちも労働したのかというと、勿論、しました。それでも、シェーカーたちは教育も重視しました。女の子は夏の間、男の子は冬の間に敷地内にある学校に通いました。シェーカーの教育は程度が高いとの評判から、コミュニティー内にあった学校に教徒でない一般家庭の子女もそこに通学したこともあったそうです。考えてみてください。1871年の統計(*)では全国の就学率(白人のみ対象)は70%、南部就学率は40%(白人)、20%(黒人)です。この統計をみると、シェーカーの教育が通年でないことを差し引いても、かなり充実していたことがわかります。
何を幸福かと捉えるのは、各人次第です。それでも1700年代、1800年代のそれほど豊かでなかった時代に衣食住の心配がまったくなく、また、教育も充実していた環境は、ある意味では、特定の子供たちにとっては幸福だったのではないかと推察できます。
ほんの少しでしたが、生活様式を駆け足で通り抜けました。次回は、食と衣服について。
(*)Rupert B. Vance, All These People: The Nation's Human Resources in the South (Cappel Hill: University of North Carollinea Press, 1945) 南東部とは、Vanceによると、 アラバマ、アーカンサス、フロリダ、ジョージア、ルイジアナ、ミシシッピ、ノースキャロライナ、サウスキャロライナ、テネシー、バージニア、そしてケンタッキーの11州をさしています。)
(3月11日2008年)